リピドミクスがついに来る!脂質研究の最前線と健康価値創造への道

2025.05.26

リピドミクスがついに来る!脂質研究の最前線と健康価値創造への道

多様な機能を持つ脂質研究が今、大きな転換点を迎えている。細胞膜の構成要素であり、エネルギー産生と貯蔵を担い、シグナル分子として情報伝達を行う脂質。その研究領域「リピドミクス」には無限の可能性が広がっている。「ゲノミクス」「プロテオミクス」に続く、次の研究ホットスポット「リピドミクス」について、各分野の専門家が熱く語り合った。

登壇者
・中西 広樹 (株式会社リピドームラボ 代表取締役)
・進藤 英雄 (国立国際医療研究センター [現:国立健康危機管理研究機構JIHS]  テニュアトラック部長/東京大学大学院医学系研究科 連携教授)
・御手洗 誠 (マルハニチロ株式会社 事業企画部 イノベーション担当 課長役)

モデレーター
・井上 浄 (株式会社リバネス 代表取締役社長CCO)

「ようやく来る」リピドミクスの現在地

井上:みなさんこんにちは。油好きのみなさんに集まっていただいたことを大変嬉しく思います。今回リピドミクスという題名を掲げていただいたのですが、とても重要なテーマです。みなさんゲノミクス、プロテオミクスは聞いたことがあると思います。メタボロミクスも聞いたことがあるでしょう。しかしリピドミクスは、ずっと「来るぞ来るぞ」と言われながら、まだ本格的には来ていないのが現状です。

進藤:来ています。

会場:笑

井上:いやいや、客観的に見てもまだ来ていないのではないかと。。

会場:笑

進藤:来ていますよ。

会場:笑

井上:さて(笑)、皆さん、研究をする中で「脂質を調べなければ」と考えますか?生物学研究ではゲノムやミトコンドリアを調べようとなります。タンパク質で構成される生体分子も重要です。生命活動から出る代謝物とその影響を調べるメタボロミクスも注目されています。しかし脂質を見ようというモチベーションはなかなか湧いてこない。その理由は、解析できる脂質の種類や解析レベルがどこまで進んでいるか分かりにくいからです。今回のセッションでは、リピドミクスという分野を掘り下げ、新たな健康価値創造への道標を示したいと思います。

井上:今日は脂質研究のスペシャリストたちと議論します。国立国際医療研究センターの進藤先生、マルハニチロから御手洗さん、そしてリピドームラボから中西さん。まずは進藤先生から自己紹介をお願いします!

進藤:国立国際医療研究センターの進藤です。脂質研究を専門としています。まず知っていただきたいのは、脂質には良い脂質と悪い脂質があり、バランスが重要だということです。今日は「ようやく可能になった生体膜リン脂質操作研究」についてお話しします。

井上:「ようやく」というのが気になりますね。

進藤:そこは本当に「ようやく」なのです。私たちの体の細胞は生体膜に覆われています。細胞の種類によって形が異なるのは、覆っている生体膜の成分が違うからです。細胞内の小器官や核も膜で覆われており、それぞれ膜の組成が異なります。拡大すると、生体膜は二重膜構造になっていて、その主成分がリン脂質です。リン脂質は親水性の頭部と疎水性の脂肪酸からなり、私たちの体には1000種類以上存在します。

進藤:細胞の大きさと膜の厚さの比率をイメージできますか?細胞が直径1メートルのボールだとすると、膜の厚さはわずか1ミリメートルです。細胞の実際の大きさは約10〜50マイクロメートル(1マイクロメートルは100万分の1メートル)で、膜の厚さは約10ナノメートル(1ナノメートルは10億分の1メートル)しかありません。つまり非常に薄いのです。

井上:激薄ということですね。

進藤:そうです、激薄です。この非常に薄い膜の構成要素として、様々な脂肪酸があります。中でもオメガ3やオメガ6と呼ばれる脂肪酸は、私たちが体内で作れない必須脂肪酸です。これらは食事から摂取する必要があります。他に体内で合成できる飽和脂肪酸などもあります。これら多様な脂肪酸の組み合わせで、機能の異なる膜が作られるのです。しかし、各脂肪酸がどのように生体機能を調節しているかというメカニズムはまだほとんど解明されていません。

体を形作る脂質の多様性と新たな研究の可能性

進藤:リン脂質は多様なタイプがあり、組織や細胞、さらには細胞内の場所によっても組成が異なります。これは私たちの衣服と同じで、用途に合わせて素材や形が変わるのです。細胞や細胞小器官も同様に、その機能に合わせて膜組成が最適化されています。

進藤:「ようやく」と言った理由は、リン脂質に関する概念は1950年代に提唱されましたが、責任遺伝子の同定は2000年ごろからで現在の遺伝数の同定は2020年頃まで待たなければなりませんでした。私達も数種類の遺伝子を発見しましたが、遺伝子改変マウス(特定の遺伝子を操作したマウス)を作製できるようになったことで、初めて生体内のリン脂質を実験的に操作する研究が可能になったのです。これにより通常のマウスと比較実験ができるようになりました。

進藤:例えば、アラキドン酸を含むリン脂質の生成が減少すると、食事由来の脂質が小腸の細胞に蓄積し、栄養を体内に運搬できなくなります。DHA(ドコサヘキサエン酸)を含むリン脂質が作れなくなると、精子の形態異常や視覚機能の低下が起こります。これはDHAが目に良いという理由の一つです。まだ解明すべき点は多いですが、DHAの重要性は明らかです。

井上:この研究は比較的新しいものなのですね。

進藤:すべての細胞が持つリン脂質は、進化の過程で多様性を獲得しました。あるいは、多様性を獲得したことで生命が進化したのかもしれません。脂質はあらゆる生命現象に影響を与え、多くの疾患にも関与しています。そのため、新しい診断法や治療法の開発ターゲットになる可能性があると考えています。

井上:脂質研究はまさにこれからということですね。今がチャンスじゃないですか!

進藤:本当にチャンスです。これから多くの発見があるでしょう。

井上:進藤先生のお話にあった食品として重要なオメガ3について、マルハニチロの御手洗さんからお話を伺いましょう。

御手洗:マルハニチロの御手洗です。弊社ではDHAを配合した「リサーラソーセージ」という商品を展開しています。DHAは目や脳に良いとされ、認知機能や記憶力の改善効果が期待されています。私たちはその効果を確認するための臨床研究を実施しました。

御手洗:島根県と広島県の境にある高齢者の多い地域で、島根大学の協力を得て研究を行いました。住民の方々にリサーラソーセージを6ヶ月間毎日摂取していただき、定期的に認知機能テストを実施しました。その結果、摂取開始時と比較して3ヶ月後、6ヶ月後でスコアが向上するというデータが得られました。この結果は統計的にも有意差があり、消費者庁から「認知機能をサポートする」という機能性表示食品のエビデンスの一つとなりました。

御手洗:リサーラシリーズには中性脂肪を下げる効果のある「緑のリサーラ」の他にも、減塩タイプの「青のリサーラ」と心臓や血管の健康に配慮した「赤のリサーラ」(特定保健用食品)もあります。循環器系の健康維持に役立つ商品ラインナップを展開しています。

井上:次に、脂質解析の専門家であるリピドームラボの中西さんにお話を伺いましょう。

中西:私はこの中で一番の「油好き」だと自負しています。長年脂質研究に取り組んできました。元々は進藤先生のご指導のもと、生体膜の重要な構造について研究していました。当時の研究手法では、脂質の多様性や網羅性を捉えきれず、個別の脂質と現象の1対1の関係ばかりを調べる形でした。これでは真の理解には至らないと感じていました。

中西:脂質を網羅的に分析するため、質量分析法(物質の質量を高精度で測定する手法)に着目しました。しかし当時は技術も装置も不十分で、「脂質は測れても全体像は分からない」状態でした。そこで私自身が技術と装置の開発から始め、それが現在のリピドームラボにつながっています。

「油好き」が語る脂質の進化と地球上での役割

中西:脂質は地球上に生命が誕生した約40億年前から存在していました。最初の単細胞生物の細胞膜に脂質は不可欠だったのです。進化の過程で脂質は多様性と機能を獲得してきました。現代人は体内でも脂質を合成しますが、大部分は食品から摂取しています。体内では取り込んだ脂質を代謝して異なる機能を持つ脂質に変換したり、植物由来の特殊な脂質を利用したりしています。

中西:現在、国際的なデータベースに登録されている脂質の種類は約5万種です。しかし理論的には数百万種類が存在すると言われています。まだ把握できていない脂質が膨大にあるのです。また、判明している5万種についても、構造は分かっていても機能はほとんど解明されていません。この未知の領域を探求することが我々の使命だと考えています。「リピドームの価値が物の価値を変える社会を作る」というのが我々リピドームラボのビジョンです。

井上:脂質の重要性について一般的な情報を共有しましょう。人体の構成成分として、水分が約60%、タンパク質が約18%と言われていますが、脂質もタンパク質と同程度あり、人によっては脂質の方が多いこともあります。自分の体の重要な構成要素である脂質ですが、その解析はまだ十分に進んでいないのが現状です。

井上:栄養素としての脂質も重要です。五大栄養素の一つですが、タンパク質やビタミンと違って意識的に摂取することが少ないかもしれません。

井上:これからは角煮のような脂っこいものは控えるべきでしょうか?

進藤:脂質の種類とバランスが重要です。角煮ではなく魚の油、特にオメガ3脂肪酸を摂取することが大切です。

進藤:私たちが油なしでは生きられない理由はいくつかあります。エネルギー源になるだけでなく、ホルモンの原料、細胞膜の構成要素、脂溶性ビタミンの吸収補助など多様な役割があります。「油は避けるべき」という考えもありますが、オメガ3やオメガ6のような必須脂肪酸は体内で合成できないため、食事から摂取する必要があります。ただし全体的なバランスが重要です。

井上:リピドミクスの現状について、理化学研究所のデータでは脂質は8つのカテゴリーに分類され、約2万種が同定されています。予測構造も含めると4万種以上になりますが、中西さんによれば実際には10万種から100万種以上存在する可能性があります。つまり脂質についてはまだ分かっていないことの方が圧倒的に多いのです。

リピドミクスの未来と「刺身が日本の心」

井上:脂質解析の現状について、日本有数の専門家である中西さんにお聞きします。

中西:当社では年間4,000〜5,000サンプルの脂質解析を行っています。食品関連や微生物の分析が多いですね。脂質研究は本格的な歴史としては60〜70年程度で、当初は工業的な油脂化学が中心でしたが、徐々に栄養学や生命科学的アプローチが増えてきました。

中西:現在の脂質解析では質量分析技術を活用し、より高解像度で詳細な情報を得ることができます。顕微鏡の倍率を上げるように、より精密に脂質を観察できるようになったのです。例えば、以前から脳や皮膚に脂質が重要だと言われていましたが、今ではどの脂質分子が特に重要なのか、分子レベルで特定できるようになってきました。

井上:これまでは特定の脂質と現象の関係だけを個別に調べていたのですね。

中西:そうです。例えばゲノム研究では、初めは特定の遺伝子の有無だけを調べていましたが、ゲノミクスの発展で網羅的に全遺伝子を一度に分析できるようになりました。脂質研究も同様の進化を遂げ、リピドミクスとして細胞内の多様な脂質を一度に分析できるようになってきています。

井上:医学研究者が網羅的な脂質分析をしたい場合、どのように依頼すればよいですか?

中西:基本的には細胞や組織などの試料をそのままお送りいただければ、当社で適切な前処理と分析を行います。免疫応答など特定の生理現象と脂質の関連を調べたい場合は、対照群と処理群のサンプルをご提供いただくとより効果的です。差異のある脂質が見つかれば、さらに詳細な解析も可能です。

井上:生体機能の脂質制御にどんなものがあるか、また、脂質研究が進むことで得られる成果について、進藤先生のご意見をお聞かせください。

進藤:脂質の生体影響の分かりやすい例として、発熱や痛みを誘発するプロスタグランジンなどの脂質があります。アスピリンやロキソニンといった鎮痛薬はこれらの産生を抑制します。また、コレステロール低下薬やEPA・DHAを含む機能性食品など、脂質研究の成果は既に医療や健康維持に貢献しています。さらに細胞膜の機能解明が進めば、全く新しい創薬アプローチが生まれる可能性があります。これまで解明されていなかった疾患メカニズムや生命現象の理解も深まるでしょう。

井上:御手洗さん、企業としてEPAやDHAのような機能性脂質に注目されていますが、新たな脂質の新たな機能が発見された場合、商品開発につながる可能性はありますか?

御手洗:もちろんあります。ただし脂質には体に良いものと悪いものがあるため、適切な選択が重要です。また良い脂質も一度摂取すればすぐに効果が出るものではなく、継続的な摂取により体内に蓄積していくことが大切です。食品中での脂質の存在状態や吸収効率も重要な要素です。

井上:DHA・EPAは体内でどのように働くのですか?

進藤:DHA・EPAはそのまま体内に取り込まれ、細胞膜などに組み込まれて機能します。最終的に代謝されますが、継続摂取により一定の濃度を維持できます。

井上:だから魚の摂取が推奨されるのですね。

進藤:その通りです。特に刺身のような新鮮な魚がおすすめです。

井上:「日本の心、刺身がとても良い!」ということですね。

中西:EPA・DHAは他の脂質と異なり、過剰摂取による副作用の報告がほとんどありません。ただし完全に無害というわけではなく、やはりバランスが重要です。

脂質研究の未来と社会実装への道

井上:脂質研究の今後の展望について、各専門家の見解をお聞かせください。御手洗さん、EPA・DHAはソーセージ以外の形で市場に出る可能性はありますか?

御手洗:当社の永遠のテーマとして、DHAをソーセージ以外の食品に応用する研究を進めています。飲料は有望なターゲットの一つです。

井上:DHAを飲料として摂取する時代が近づいているということですね。

御手洗:課題はDHAの魚臭でこれを抑制する技術が必要です。この分野での技術をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひご連絡ください。

井上:中西さん、脂質研究の将来についてはどのように考えてますか?

中西:脂質研究はタンパク質やゲノム研究に比べてまだ歴史が浅く、多くの未開拓領域があります。私は人の健康だけでなく、食品、植物、微生物など幅広い分野での脂質研究に可能性を感じています。これらの分野はまだほとんど解明されておらず、現在の技術を活用して積極的に研究を進めるべき時期だと考えています。

井上:御手洗さん、マルハニチロの今後の展望をお聞かせください。

御手洗:私たちは水産会社として、魚の持つ健康機能、特にDHAなどの機能性成分の価値をより広く社会に届けたいと考えています。摂取しやすい形での提供を目指し、健康社会への貢献を続けていきます。

井上:進藤先生、学術的観点から脂質研究は今後どのように発展していくでしょうか?

進藤:脂質研究は今まさにチャンスの時期です。ただし脂質単独の研究だけでは限界があり、異分野との交流や連携が重要です。脂質を軸に様々な分野が交わることで、研究の爆発的な発展が期待できます。

井上:ありがとうございました。リピドミクスは今後本格的に発展する分野です。脂質解析を検討される方は中西さんに相談し、発見されたターゲット脂質について進藤先生と共同研究を行い、その成果をマルハニチロの商品開発につなげるといった連携が可能です。本日はどうもありがとうございました。

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